だれでもわかる
義仲のヒミツ
●第1回義仲って言うと・・・
●第2回義仲の意外な真実
●まだまだ続くよ
西川かおり
当サイト管理人。長野県出身。
へタレ漫画家。
丸先輩
西の高校の先輩。
動物を得意とするスーパーアシ
義仲のことはほとんど知らなかった。
第二回
義仲の意外な真実
〜平家物語延慶本・横田河原合戦を読む〜
義仲のイメージとか、どういう作品に出てくるかはわかったけど、実際の所の
義仲はどういう人
だったの?
ほんではまー、平家物語の中身を紹介しつつお話しましょう。
一口に
「平家物語」と言っても、いろんな種類があります
。
それはもともと「源平合戦のようす」が、琵琶法師などによって「口伝え」で語られ、だんだん「書物」にまとめられていったことによるものです。
文庫本などで入手しやすいのは「覚一本」
なのですが、これだと、本当に義仲はあっさり書いてあって、人柄がいまいち良くわかりません・・・。
そんなわけで、
義仲の人柄がよく出ている「延慶本」
から、義仲の実体にせまりたいと思います。
これがもう、
ビックリするほど「いいひと。」
なんですよ!
「いいひと。」
!?義仲が??
もう正直私は、
感動しました
ね。それをお伝えしたく思うのですよ。
それは
「横田河原合戦」
に象徴されているので、そこを詳しくご紹介します。
源平版「川中島の合戦」
横田河原??それって…どこ?
えっと、
「川中島の合戦」
って知ってますか?
武田と上杉の
?戦国時代だよね…長野市だったっけ。
そう。
それと同じ場所
でやった合戦です。
え?そうなの?知らなかった…
ほんとにね、長野県の教育はどうなってるんでしょうかね。
信濃を征服して、信濃を戦場にした、はた迷惑な武田信玄の合戦は授業でやるのに、
信濃を守るために、現地のピープルが戦った木曽義仲の合戦は授業でやらないんですからねー(怒)
教員当時「木曽義仲は中央の政権に関連していないからねぇ〜
太字の人物じゃないんだよ
」とか言われましたよ。偉い人に。
だけどさー
武田信玄のほうが中央の政権に関連してませんから!!残念!!
はいはい…おちついて。どぅどぅ。
ほんと、現地の方には特に、興味を持ってやって頂きたいと思いますですよ。
まあそれはさておき。
つまり、
川中島=横田河原という場所は、歴史的に越後方面と、内陸部の境界とも言える場所だった
と言うことです。
現在でも、「篠ノ井」という駅が川中島周辺にありますが、そこは長野〜新潟方面と松本〜甲府方面へのターミナル駅になっていて、境界を象徴しています。
そんなわけで、義仲の時代も、横田河原の辺りから北部というのは、どちらかと言うと新潟の勢力に、地理的にも血縁的にも近い「信濃平氏」とも言うべきグループが形成されていました。
その長が、
笠原頼直
という人物で、現在の中野市付近に地盤を持った豪族なわけです。
ふむふむ。じゃあ、北信は平家派だったの?
義仲に近しいグループもいました。善光寺を中心とした集団で、長は
栗田氏
。義仲と血縁関係があったとも言われています。
で、
長い間、笠原グループと栗田グループがもめていた
わけです。
なるほど。
それで、「挙兵だ!平家打倒だ!」と義仲周辺が盛り上がった時、栗田氏を助けにいくというプランがまとまったわけです。
ふむふむ。
それがまあ、横田河原合戦の前哨戦の
「市原の合戦」
というヤツなのですが、これは本当に
謎の合戦
で、
笠原と栗田がもめてたトコに義仲が入って、笠原が負けて越後に逃げた
ってコトしかわからんのです。
えー…あいまいな。
そうですねえ。ぶっちゃけ、
当時義仲の注目度がその程度
だったということですね。
ただまあ、
源氏って言うだけで別に興味ももたれていなかったから、「横田河原の合戦の勝利」は驚きをもって伝えられたのだと思います。
なるほどねー。じゃあ、もーすんごい勝利だったんだ。全国にどどーんと知れ渡るような!
高速道路で見てみよう!?横田河原の合戦
横田河原の戦いって言うのはですね、軍勢の数も誇張があるとかいろいろ言われているのですが、まー義仲の軍勢の20〜30倍を越後平氏=城氏が率いてきた戦いって感じなんです。
2〜30倍!?
軍記物だと義仲の方が2000〜3000騎、城氏の方が4万〜6万騎、って感じです。
まー同時代の史料では「城氏一万騎」と言われているので、かなり誇張されてると思いますが。
一万だってすごい人数…どうやって集めたの?
というのも、
城氏はあまり知られていませんが、源平合戦の時代に一大勢力を持っていた豪族です。
越後は国自体が広いですから、地図に色を塗ったなら、シャレにならないくらい支配地域が大きいです。
ふむふむ。
ただ、詳しいことについては、出羽との国境あたりの平氏の流れを汲む豪族で、だんだん南下してきて越後国府(上越市)まで進出して実権を握ったらしい…という感じにしかわかっていません。
詳しい方がいらっしゃったら私も教えて頂きたいです。
まー義仲もこの時代は謎ですから、都の貴族達は税さえ取れれば地方がどーでもよかったんでしょうね。
しらねざるロマンが地方にまだまだ眠っていそうだね。
で、城氏が越後を支配したのは義仲よりも一世代上の人たちだったから、支配力も国内にしっかり及んでいるし、統制力も合ったと思います。
だから、
本当に信濃を自分たちが支配するために戦いを挑んできたんです。
軍勢を3手に分けたと軍記物にあるんですが、それを地図に落としてみると、その本気さ加減が良くわかります。
越後の武将って、なぜか国を掌握すると南下するよね。謙信とかもそうだよね。
そうそう。パターン的に似ていると思いますよ。
で、この頃の義仲は、木曽じゃなくって依田城に拠点を置いていました。
今で言うところの長野県丸子町のあたりなのですが、その丸子町を千曲川ではさんだ対岸は、浅間山の麓を抜けて群馬→新潟へ抜ける道の入り口になっています。
まさしくそのルートが城氏が分けた一手「上田越」の軍勢を送ったところなのです。
ちょっと待って、国府があったっていう上越とは全然離れてるじゃん。
ほんと、この離れ具合。長野や新潟をご存じない方にはリアルに想像して頂けないのが非常に残念です。
是非、地図を開いて、高速長野道を見ていただいて、インターチェンジの名前などと、この文章を比べて頂くとわかりやすいと思います。
ちょうどねー
高速道路と横田河原の合戦は結構かぶってます。
何が…?
ん?「上越」に越後国府があって、「更埴」が横田河原の合戦場?
そうそう。義仲の方は、「東御(東部湯の丸?)」インターから「更埴」へ向かうわけですよ。
ほんで、「東御」インターを狙って越後側からも敵がやってくる…?
そうそう。
つまり、
城氏は「上越」→「更埴」←「東御」で挟み撃ちしたかったわけですよ、義仲を。
なんて大きな戦い!!
あはははは。ごく僅かなわかる人にしかわかんないですよ先輩…
ともかく、 上越から長野方面へ攻められるというのは、距離的にも近いし、義仲としてはいわゆる想定の範囲内と言うやつなんです。
だけどこれが、
浅間山を越えてくるとなると大問題
です。
浅間山越えってなると、長野だけじゃなくて、群馬の方もやばいんじゃないの?
そうなんですよ。長野を荒らしたら群馬へ行くかもしれないし、群馬を荒らしてから長野に来るかもしれない。
新潟に面している豪族としたら恐怖ですよ。 だから、義仲は「市原の合戦」の後、群馬へ行くわけです。
義仲にとっても、群馬の豪族達にとっても、次の敵は城氏だ
ってわかってるから。
そっかーだから群馬の武士が横田河原に結構出てくるんだ
義仲の父親の地盤がもともと群馬方面に会ったというのも理由の一つだと思いますが、義仲としては、来るべき城氏の恐怖に備えて、出来るだけ仲間を増やしておきたかったと。
だけど、城氏の20分の一…
そうなんす。その辺が
信濃武士でもまだ危機感が足りないというか、日和見的な豪族もいた
ってことなんだと思います。
あと、
城氏は正式に国府を掌握しているから、都のお墨付きで国内から徴兵
できたという点は大きく違うでしょうね。
だ
けど、この「徴兵」ってのがくせもの
だったみたいなんです。
えー数が多ければいいんじゃないの?
士気の問題かな…
「俺達が戦わなければ、俺達の国が、蹂躙されてしまう!!!」と本人達が必死になってるのと、
「俺様の国を広げるために、戦いに行くから来い」と行きたくないのにつれてこられたのでは、戦う前からちがいますよ。
そらちがいますがな。
しかも、
重装備なのに、季節は真夏!
あせだらだら、息絶え絶え、やる気もない…。
そして恐怖の山越え…疲れ果てた兵は倒れて谷底へ…
だけど、軍勢は前へ前へ…
うわー…やだぁそんなの…
だから、越後軍勢は、信濃にはたどり着いたけど、数も多かったけど、やる気満々の義仲軍勢には勝てなかったんだよね。
なるほどねえ…
戦後処理に見る義仲の「いいひと」さ加減
戦について詳しくは「戦記」の方で解説してありますが、簡単に言うと
@義仲が大変少ない人数で
A地元の地理を生かした作戦で
B赤旗白旗をあげたりおろしたりして
勝ったらしい…
って感じで…
現在に伝わっています。
おいおーい。
義仲の注目度が低かったから、勝ってからビックリで情報を集めたけど、断片的、ばらばらで良くわからん。
という感じだったのだと思います。当時の貴族的には。
ただ、
信濃の人たちにとっては、これはとても重大な戦い
で、みんなに語り継がれた。
それが集積されたのが「延慶本」のようなのです。
だから、戦後処理などについて詳しく紹介されています。
戦後処理…?
越後の兵や城氏がどうなったの?やっぱ首を取られたの?
いやそれがね、
逃がしちゃってるんですよ。
えぇ?
さすがに4万に軍勢に守られてただけあるね。
いや、違うんですよ、
軍勢は負けそうだと思ったら、我先に逃げてしまって、城氏を守って…って感じじゃなかったようです。
だけど義仲は、ほうほうのていの城氏をわざわざ捕まえてさらし者にするようなことはしなかったし、ずっと対立していた笠原頼直も無事?越後に逃げています。
えー追っかけてってやっつけなよ義仲!!
おまけにね、
城氏の息子は戦が終わってから、信濃で隠れていたことろを見つかるんだけど、
もちろん…打ち首?
とんでもない。
ご丁寧に、新潟まで送り届けちゃったんです。
「見つけたんで返しに来ましたよー」って。
(爆)
なんなの?そのいい人ぶりは??
フツーの武将なら、虐待の末惨殺って感じじゃないの?
そーですよねー。
だから越後の人たちは、義仲が攻めてくると思ってるから、ほんと怖かったみたい。
だけど、何にもしなかった。
城氏は義仲と戦うことなく国府を出て、もともとの領地の出羽近くまで撤退して、その空いた国府に義仲が入って、信濃も越後も収まっちゃったんです。
どえー?合戦は?血みどろの争いは!?
で、その様子を見ていた北陸の武士達がびっくりして、「この人なら…キラリーン」てな感じで、義仲の下に集まってきたんです。
つまり、
横田河原一回の流血だけで、義仲は信濃も越後も北陸も手に入れてしまったというわけ。
えー!?
面白いでしょ。
攻められたら受けてたつけど、自分から戦いをふっかけない男なんですよ義仲は!!
なんかイメージ違う…戦大好き!!女大好き!!!みたいなさー…
だからそういう
義仲が暴力と共に語られているのに、私は非常に悲しさを感じる
わけなんでございますよ。
対照的な二人…「棟梁」にこだわっていたのはだれか
この頃
頼朝は、というと、遠縁にあたる佐竹氏や叔父の志田義広などに戦をしかけています。
もちろん、関東での覇権を手にするためです。義仲とは対照的ですね。
そして、関東が収まってくると、義仲に狙いを定めてくるわけですよ。
戦…してないよね?頼朝とは。
そうですね、頼朝と義仲の間に合戦があったかどうかというのは、実際良くわかりません。
つか、
頼朝は兵を出したのは確からしいんだけど、どこまで出したのかがはっきりしてないんです。
ふむ?
碓氷峠が関東と信濃の境なわけなんですが、その手前ぐらいの群馬県内がすでに義仲の軍勢の武士団の領地です。
なので、そこに至る前で、軍勢を止めて、使者を依田城に出したと言う話と、
信濃の国の中まで頼朝が軍勢でどかどか踏み込んできて、越後国府にいた義仲に使者を送ったと言う話があります。
信濃まで頼朝が来てたら、それこそ血みどろなんじゃないの?
ですよねーだから、たぶん信濃には入ってないと思うんですが、ともかく、この時有名な事件が起こります。
義高様だ
。鎌倉に人質に取られたっていう…
そうそう。
「義仲のところに来ている叔父を差し出すか、戦をするかどっちかだ!!」と頼朝が使者を立てて挑発
してきたんです。
そしたら
義仲は
「叔父はやれんが、息子はやれる」
って…
ほんと、どういう自己犠牲の神経なんだろうね。義高様かわいそう。
どうでしょうね。てゆうか、義仲は天然自己犠牲タイプですけど、ぶっちゃけ、
義高との今生の別れになるとは、考えてなかったんだと思います。
ええぇー!?
そのぐらい、想定して下さいよ、義仲様!!
だって、自分は城氏の子供を助けて送ってるわけだし。清盛だって頼朝・義経を助けてる。
子殺しは、当時の武士にとってはまだ常識ではなかったのかもしれない。
それに、
戦局によっては、義仲が頼朝と並び立つとか、その時点では無数の可能性があったわけ
ですよ。
私たちはつい、後世の目で、すべてが一つの流れにあるように見てしまいがちですが、
義仲本人は、歴史が選ばなかった他の可能性を模索していたんだと思います。
ふむーそうかもね。
義仲が頼朝に負けなかったらどうなってたんだろうね。
そうですね…
ただまあ。
親と子が離れ離れと言うのは悲しいことですから、
義高が鎌倉へ行くというのは、義仲軍勢の中には深く刻まれた
わけです。
「義高が鎌倉へ行くことによって戦は回避されて、男達は命を無駄にしないですんだ。
だから女達は義仲にすごく感謝した」
と延慶本に出てきます。
義仲は頼朝に屈したというより、無駄な血を流さないための選択をしたんだと思います。
義仲はドラマや小説で、頼朝にものすごいライバル心を燃やして、「1番になりたい」と描かれていますが、
もし自分だけが「棟梁になりたい、1番えらくなりたい」と思っていたら、
無駄な血をどんどん流して、犠牲者の山を積み上げていく戦い方をしたんじゃないかなと思いますね。
そっか…
だから逆にドラマの義仲って、好戦的に描かれてるんだね。
そうですね。わびしいっす。
第2回終了2005年5月20日
前回は
「義仲って・・・〜二次創作物により描かれた義仲像〜」
木曽義仲の基礎知識
/kaori-nishikawa1996