義仲の子孫
●人名リスト


ある雑誌でこんな記載を見たことがありました。
「鳥取県、兵庫県と境を接する中国山脈の奥深く岡山県英田郡東栗倉村中谷は全国でも珍しい「源氏の落人」部落だ。源頼朝に討たれた木曽義仲の子孫が流浪の末に定住したわけだ。現在でも29代・林義典氏を総大将に静かに農業を営んでいる・・・。」
義仲が頼朝勢に敗れ、その親族は追われる身となりました。しかし、各地に義仲の血を継ぐ方々が今でもいらっしゃいます。どうやって、義仲の遺児・親族は生き延びられたのでしょう?さまざまな書籍、各木曽家の皆様や各地方に伝わる伝承をあわせて、義仲の後の木曽家について調べてみました。


義仲の子ども達

義仲には四人の男子と一人の女子があり、それぞれ、義高、義重、義基、義宗、鞠子といいました。


清水義高

 義高は頼朝の元へ送られた「清水冠者」です。平家物語や吾妻鏡によれば、義仲の死後、反乱を恐れた頼朝によって殺された事になっていますが、いくつかの伝承も残っています。
 石川県加賀市史に次のような記載があります。木曽義仲と山吹御前の子・義隆が滋賀県牧野町海津に梅霊山(現在願慶寺)に庵を設けました。その五代の孫「教善」が、文明三年蓮如上人と共に加賀市にうつり現在、加賀市大聖寺「慶徳寺」の祖となったとの事です。
 栃木県には、鎌倉を逃げ出した義高は佐野綱基のもとに落ち延び、一緒に逃げた海野幸氏が身代わりとして討たれたと言う伝承があります。その後、義高は岩崎義高と名乗り、栃木県安蘇郡田沼町に住んだ。頼朝の死去後、義高は更に西佐野義基と名を改め、幕府の御家人として仕えたといわれています。

義重

 義重には、いくつかの伝承があります。
広島県御調郡向島町にこんな言い伝えが残っています。義仲が栗津ケ原(大津市)で討死した時「大夫坊覚明」が義仲の三男義重と武士三十六名と瀬戸内海を逃げて落武者として向島に隠れて再興を期したのですが、それも成らずそのまま住み付いてしまったそうです。覚明は寺を築いたり土地になじんでいたのですが、二十年位で長野に帰っています。義重と三十六名の武士はそのまま向島に生き続けて子孫が残っているとの事です。
 この他、長野県には「義仲の死後、鬼無里に隠れ、仁科氏の祖となった」と言う伝承があり、現在「木曽殿あぶき」と言う史跡も残っています。

義基

 義基は外祖父上野国沼田の藤原家国(俵藤太秀郷の末孫で佐野家一族という伝説がある)に頼り預けられ、後に僧となり、親鸞の弟子となり、越後国に移り長称寺を開基したと言われています。(長称寺はその後福島、安曇郡横沢村、松本市と移転しましたが、現在も寺宝として、義仲の太刀、義基の懐刀などが残っています。)
 義基の子孫は長く続き、後の木曽家に続いています。
 義基は父の没後甲州に身をかくしたが、義基6代の孫・家村の後、木曽家が代々木曽を領有していた。また、家村の5男・家重は上野国千村郷を領した事から千村の姓を名乗り、その後、木曽家の家老職として活躍した。
 しかし、木曽義昌・義利の時、秀吉が木曽から下総国海上郡網戸に領地替えをし、更に家康がその領地を没収、義利は伊予松山に流浪の身となった。その後、義利の子義辰は松山藩の一員となり、その子孫は藩主の祐筆として活躍した。
 木曽家から別れた千村家は、下総国で流浪の身になっていたが、関ヶ原の合戦に向かう家康軍の先導役を勤めた功績から、美濃国可児郡久々利に屋敷を構え、幕府の旗本としても、尾張藩重臣としても活躍しました。

義宗

義宗については、その後の系図が残されていますが、彼自身についてはっきりした事は分かっていません。しかし、推測できるこんな伝承があります。
 義仲の死後、信州に残された遺児と義仲重臣の親族は、関東北部などに逃れました。群馬県北部には、「浅間の狩」という伝承があり、義仲の遺児「細野四郎」を頼朝が討とうとしたことが伝えられています。しかし頼朝は、細野四郎を許し、湯本の姓とこの地方の地頭を仰せつかったと湯本氏諸系図が記しているとの事です。
 「四郎」を名乗るという事は義仲の四男と言う事になります。そして系図上の四男は「義宗」です。もしかしたら「四郎=義宗」なのかもしれません。

系図にない義仲の子ども達

 義仲には、巴、山吹、葵、唐糸、伊子という複数の愛する女性達がいました。巴と山吹は武将として義仲について行ったようですが、二人がそれぞれ妊娠していたのではないかと指摘する声があります。
例えばそれぞれにこんな伝承があります。
 巴は義仲の死後、落ち延びて木曽の奥地・萱が平に隠れ、双子を産みました。その子孫が「小木曽氏」を名乗ったといいます。
山吹は義仲の死後、義仲の領国だった伊予の国に逃れました。そして猿谷と言う所で女児を産みましたが、亡くなってしまいました。
この他、巴と山吹の終焉の地については、多くの伝承が残されています。


まとめ


様々な資料から「義仲後の木曽家」について調べてみましたが、 非常に多くの伝承と可能性が残っている事がわかりました。  義仲の遺児達にまつわる伝承からは、義仲を慕う者達の想いが伝わってくるようです。八百年以上前から脈々と受け継がれた人々の想いを垣間見たような気がしました。