樋口兼光
●人名リスト
【ヒグチカネミツ/?年〜1184年没】
中原兼遠の子。兼遠の長子は系図などには残っておらず、事実上は兼遠の長男。中原家では最も年長で、義仲の信頼も厚かった。水島合戦時には同行せず、京都の守護に当たるなどにその様子がうかがわれる。

生い立ち
義仲が兼遠のもとにやってきた時には五歳くらい。義仲と共に育ち、共に学んだ。 一足早く元服し、伊那の樋口に館を構えたといわれている。名字の樋口はそれに由来する。その後義仲の挙兵に際し、依田城に義仲が移った時、近くに城を構えたと言われる。

源平合戦での活躍

義仲の戦いにはいつも参戦していた。兼光は他の兄弟に比べて武蔵の国に縁があるらしく、兼光の活躍は武蔵七党がらみのものが多い。中でも、斎藤実盛の首を検めた一件は有名。(加賀市にはそのシーンを再現した銅像が立っている。)

義仲の死後と子孫

義仲が討たれた時、別行動をしていたため、都に戻ったところで母の出身の児玉党に助けられるが、本人は義仲以外に従う気もなく斬首された。しかし彼の子孫は群馬、新潟などにいきのび、その後兼光の子孫の中から、戦国時代、上杉謙信の武将・直江兼続が出ている


別項→
参考文献→
関連事項
→古典芸能/歌舞伎・文楽「ひらがな盛衰記」
→戦記/四天王戦記「樋口兼光」

木曽義仲の基礎知識/kaori-nishikawa1996