今井兼平
●人名リスト

【イマイ カネヒラ/?年〜1184年没】

生い立ち

今井四郎兼平は一一五四年(?)に信濃権守・中原兼遠の四男として生まれました。母は埼玉県児玉の出身と言われます。二歳の頃には、駒王丸(後の木曽義仲)を兼遠が引き取り、兄弟のように育てられました。
貴族出身の中原兼遠は、子供達に高度な教育を行う一方で、信濃に土着し、土地を守って行くための武士としての鍛錬も忘れませんでした。

一一六六年駒王丸は、平氏に気づかれないよう、京都の石清水八幡宮で元服し、そのときから「木曽義仲」と名乗ったといわれますが、同い年の兼平も同じ頃、もしくはいっしょに元服したと考えられます。
兼平は、松本の「今井」に住居を構えた為、その名字を名乗りました。(そのため、松本周辺には兼平に関わる史跡伝承が多く残されています。)
当時信濃国府は松本に有り、兼平は父・中原兼遠の開発した、国府周辺の土地を受け継いだと考えられます。

源平合戦での活躍

1180年、以仁王の令旨が義仲のもとにも届けられました。義仲は木曽周辺の軍勢をまとめ、旗挙げし、平氏に味方する豪族を討ちつつ、新たな本拠地、依田城(長野県丸子町)に移り、軍事的後見役・根々井行親の勢力圏内の武将達を従えました。兼平も根々井行親の領地の近くに館を構えました。そして、義仲に従う軍勢は長野県から群馬県北部に及びました。

横田河原の合戦で勝利の後、越後国府に入った義仲は、北陸を固めるために、兼平を各地に赴かせました。兼平は新潟県糸魚川市、新潟県中魚沼郡津南町、福井県丹生郡清水町にそれぞれ「今井城」を築き、義仲の期待に応えました。


1183年、頼朝と対立した義仲のおじ義広と行家が、義仲の元にやってきました。
その事をネタに頼朝は義仲に兵を送って「二人のおじか、息子の義高を鎌倉に差し出さなければ、兵を信濃に進める」と脅しました。義仲は家臣達と話し合いましたが、なかなか答えは出ませんでした。
義仲は自分を頼ってきたおじたちを見捨てる事はできず、
「ここで鎌倉と戦うのは得策ではない。おじが無理なら義高を鎌倉に送るべきだ」という小室光兼と、
「どうせいつか頼朝とは決着をつけなくてはならないのだからここで戦うべきだ」という兼平が対立し、
義仲は小室の意見を採って、息子の義高を鎌倉に送りました。
これにより頼朝は満足し、義仲は鎌倉から脅かされることなく北陸道へ兵を送る事ができました。


義仲軍は、倶利伽羅峠の戦い(五月)の圧倒的な勝利をはじめ、北陸道を義仲軍は連戦連勝で進みました。
兼平は木曽四天王の随一として、各地で戦いました。特に倶利伽羅峠の戦いの前哨戦であった般若野(富山県)の戦いでは六〇〇〇騎を率いて平氏側の先鋒部隊をけちらし、倶利伽羅での勝利を導き出しました。

義仲は勝利におぼれることなく慎重に兵を進め、平家の都落ちを見定めてから京都へ入りました。平氏は幼い天皇を連れ西国に逃れ、再起を図ろうとしました。御白河院は義仲に平家追討を命じましたが、義仲はそれに従わず、都の治安を守ろうとしました。しかし、一一八一から二年にかけての飢饉のため、京では食糧不足に直面していました。そこに義仲軍が入るという変則的な出来事が起きたため、都の混乱は続き、義仲軍の名をかたって乱暴狼藉を働く者も現れました。
また御白河院進めていた新天皇の人選についても、義仲が北陸の宮(以仁王の子)を推して介入したため、次第に院は義仲を疎ましく思うようになっていきました。院は「平家追討」を名目に、義仲を遠ざけ、密使を送ってきた頼朝に接近しました。

義仲は山陽道に進軍しましたが、先鋒隊が水島(岡山県)で平家に破れ、また、院が頼朝に関東・中部地方の支配を許可する「十月宣旨」を出した事を知り、急いで京に戻りました。
しかし、院の近臣は兵を集め義仲を挑発し、義仲は院に弓を引く事を決意しました。

兼平はそれをとめようとしましたが、義仲の意志がかたい事を知り、兼平は自ら院の御所に火を放ちました。 その結果、義仲は政権を握り、征夷大将軍にまでなりましたが、頼朝が送った義経らの軍に追われる身となりました。

兼平は義経の軍に立ち向かうべく義仲と別行動をしていましたが、死を前にして、二人は奇跡的にめぐり合い、そして、共に粟津で果てたのでした。

別項今井兼平の妻と子孫
参考文献
関連事項
→ゆかりの地/兼平史跡探訪エッセイ
→戦記/四天王戦記「今井兼平」

木曽義仲の基礎知識/kaori-nishikawa1996