駒 王 丸 誕 生 そ し て 信 濃 へ


1154年、源氏の棟梁・源為義の次男、帯刀先生義賢と武蔵国(埼玉県)の豪族の娘・小枝の間に男の子が生れました。駒王丸と名づけられた赤ん坊は武蔵の自然の中ですくすくと育っていました。ところが、そんな幸せな一家に思わぬ不幸が起こりました。駒王丸の従兄弟で相模に本拠地を持つ義平が、父・義朝の命を受け、義賢の屋敷を夜襲したのです。

もともと源氏の中では次の棟梁をめぐる争いが絶えず、この出来事もその一つでした。義賢は討死にし、小枝と駒王丸は斎藤実盛の助けをかりて信濃の国に逃れました。そして武蔵国との国境に領地を持つ滋野党の根井行親と滋野党棟梁・海野幸親によって、更に信濃の山深い木曽に領地を持つ信濃国府の権守・中原兼遠の許へ送られました。事情を知った兼遠は駒王丸を引き取り、自分の子供たちとともに育てる事にしました。幼い兄弟は、真相は分からず、弟が増えたようにしか思っていなかったでしょう。

一一五九年、京では平治の乱が起こりました。平氏と源氏が武家の頂点を目指して戦いましたが、この戦いは平清盛が「源氏打倒」の計画を錬っておこしたもので、源氏はあっけなく敗北してしまいました。駒王丸の父を討った悪源太義平も、暗殺を指示した源義朝も、その戦いで死に、駒王丸を追う者はいなくなりました。中原兼遠は平氏の目を気にしながらも、駒王丸の源氏の血をよりどころに着々と信濃での勢力を広めました。

木曽には、兼遠が子供達のために建てたという「手習い天神」があり、貴族出身の中原兼遠は、子供達に高度な教育を行ったと考えられます。 また、義仲と兼平ら中原兄弟が鍛錬の場とした「かくし城」もあり、信濃に土着し、土地を守って行くための武士としての鍛錬も忘れなかったことがわかります。しかし、兼遠が権守としての職務を果たすには松本に居なくてはならず、一説によると義仲や中原兄弟は松本で成長したともいわれています。

 一一六六年駒王丸は、平氏に気づかれないよう、京都の石清水八幡宮で元服し、そのときから「木曽義仲」と名乗りました。
その頃の世の中・・・

平安時代末期、律令制度はくずれ、信濃等の東国は開拓者の時代でした。力を持った農民達は自分の土地を広げ、土地を守るために武装し、豪族となりました。そして、自らの力を守り、また強めるため、国司や京の貴族といった「権力」に後ろ盾を求めました。また国司やその部下の中には任期が過ぎても任地に残ることにより、貴族としての自分の力を地方で生かし、土着する者もいました。

都では、長く続いた藤原氏の時代が終り、「院」が政治を行うようになりました。しかし世の中はいっこうに良くならず、地方では土地をめぐって争いが絶えませんでした。

豪族たちは武力を高めて「武士」と呼ばれるようになり、貴族の警護や僧兵との戦いのなかで、特に「源氏」と「平氏」が都で活躍するようになりました。

平氏が一族の結束を強めたのに対して源氏は身内での争いが絶えませんでした。それを利用して「平清盛」は源氏を「保元の乱」「平治の乱」の二つの戦いを通して追い落としました。そして政治にまで手を伸ばし、強い力を持つようになりました。


義 仲 の 挙 兵



一一八〇年、以仁王の令旨が義仲のもとにも届けられました。義仲は木曽周辺の軍勢をまとめ、旗挙げし、平氏に味方する豪族を討ちつつ、新たな本拠地、依田城(長野県丸子町)に移り、軍事的後見役・根々井行親の勢力圏内の武将達を従えました。そして、義仲は父の領地にも兵を求め、従う軍勢は長野県から群馬県北部に及びました。

一一八一年、越後の城氏の進軍に対して、義仲は白鳥河原(長野県東部町)に軍勢を集結しました。そして横田河原(長野市)の合戦で勝利を収めました。そしてそのまま兵を北に進め、新潟県関山を通り、越後国府に入った義仲は、北陸を固めるために、四天王を各地に赴かせました。

今井兼平は新潟県糸魚川市・新潟県中魚沼郡津南町・福井県丹生郡清水町に「今井城」、樋口兼光も福井県鯖江市に「樋口城」「松山城」 根井小弥太は福井県今庄町に「燧が城」を築きました。

その頃の世の中・・・

 平氏は十年以上に渡り栄華を極めましたが、京の治安は悪くなり、「打倒平氏」の気運が高まってきました。一一八〇年、御白河院の子、以仁王は各地の源氏に令旨を出し挙兵を呼びかけ、自らも源頼政と共に挙兵しました。以仁王自身は平家にすぐ敗れましたが、令旨が伝えられると共に各地で内乱が広がっていきました。4月には源頼朝のもとに令旨が届き、8月挙兵しました。そして義仲も続いて挙兵しました。

内乱に対して焦る平氏は、頼朝・義仲を討つべく兵を送りましたが、成果は上がりませんでした。また、この頃、飢饉が起こり、一一八一年の夏から、翌一一八二年まで戦局は膠着状態となりました。

北 陸 か ら 都 へ



一一八三年は思いもよらない出来事から幕を開けました。義仲のおじ義広と行家が、義仲の元にやってきたのです。

鎌倉の頼朝は「自分こそが源氏の正当な棟梁」と考え、各地の源氏を自分の配下におさめようと脅したり、兵を仕向けたりしていました。そうして頼朝に従った者もいましたが、頼朝のおじ志田義広は、「甥に従うつもりはない」という態度を取っていたため、頼朝に挑発されるままに、戦となり、その結果領地(茨城県)を奪われてしまいました。源行家は以仁王の令旨を全国に伝えた人物ですが、いわゆるトラブルメーカーで、頼朝から疎まれていました。

そしてその事をネタに頼朝は義仲に兵を送ってきました。「二人のおじか、息子の義高を鎌倉に差し出さなければ、兵を信濃に進める」と。義仲は家臣達と話し合いましたが、なかなか答えは出ませんでした。義仲は自分を頼ってきたおじたちを見捨てる事はできず、「ここで鎌倉と戦うのは得策ではない。おじが無理なら義高を鎌倉に送るべきだ」という小室光兼と、「どうせいつか頼朝とは決着をつけなくてはならないのだからここで戦うべきだ」という今井兼平が対立し、義仲は小室の意見を採って、息子の義高を鎌倉に送りました。これにより頼朝は満足し、義仲は鎌倉から脅かされることなく北陸道へ兵を送る事ができました。

義仲軍は、第一戦の燧が城(福井県)の戦いでは、内通者により平家に敗れたものの、その後は火牛攻めで知られる倶利伽羅峠の戦い(五月)の圧倒的な勝利をはじめ、北陸道を義仲軍は連戦連勝で進みました。 しかし義仲は勝利におぼれることなく慎重に兵を進め、平家の都落ちを見定めてから京都へ入りました。


落 日 の 将 軍



平氏は幼い天皇を連れ西国に逃れ、再起を図ろうとしました。御白河院は義仲に平家追討を命じましたが、平家を追って戦火を広げることよりも、早く都に平穏を取り戻した方がいいと考えた義仲はそれに従わず、都の治安を守ろうとしました。

しかし、一一八一から二年にかけての飢饉のため、京では食糧不足に直面していました。そこに義仲軍が入るという変則的な出来事が起きたため、都の混乱は続き、義仲軍の名をかたって乱暴狼藉を働く者も現れました。

また御白河院が進めていた新天皇の人選についても、義仲が北陸の宮(以仁王の子)を推して介入したため、次第に院は義仲を疎ましく思うようになっていきました。院は「平家追討」を名目に、義仲を遠ざけ、密使を送ってきた頼朝に接近しました。

義仲は山陽道に進軍しましたが、先鋒隊が水島(岡山県)で平家に破れ、また、院が頼朝に関東・中部地方の支配を許可する「十月宣旨」を出した事を知り、急いで京に戻りました。しかし、院の近臣は兵を集め義仲を挑発し、そのため義仲は院に弓を引く事を決意しました。「法住寺合戦」です。 その結果、義仲は政権を握り、征夷大将軍にまでなりましたが、時すでに遅く、頼朝は義経らの軍を都に送り、義仲は追われる身となりました。四天王はそれぞれ兵を率いて応戦しましたが、勢いで優る鎌倉方には勝てませんでした。そして義仲も兼平と共に粟津で果てたのでした。