今井兼平兼平の最期
『…兼平!』
馬上の男は、刀を持つ手をとめて振り返った。
自分を呼んだその声は、おそらく小さなものだっただろう。しかし、彼の心には大きくこだまして聞こえた。
「殿…?」
琵琶湖のほとり、粟津の松原。湖上からの寒風が吹きつける睦月二十一日…
一人の騎馬武者が刀一つで、取り囲む多くの敵に立ち向かっていた。
その装束から、彼が名のある武将であろうことは見て取れた。
しかし、背中に背負っているはずの矢は、もう撃ち尽されたのか無く、
鎧も無残にいくつかの矢に射通され、そこから鮮血が滲み出していた。
「鬼神と言われた木曽殿の首、今討ちとったり!」
遠くから敵の声を運んできた風が、彼の髪を吹き上げ視界を遮った。
そのぼんやりした視線の先に、彼は無残に討ち取られた主君の首級を見た。
「…我が君を討ったのは…誰だ」
彼の身体から立ち上る怒気に、一瞬その場は凍りついた。敵たちは息を飲み、気圧されて後ずさった。
しかし、彼はふっと笑みを浮かべ、
「もう何も失うものは無い…」
とつぶやいた。その言葉と反して彼の表情はどこか満ち足りているようでもあった。
それは、数多い従者の中で、ただ一人、主君の最期を見届け、自らの使命を果たしたという充実感からだろうか。
そして彼はあたりを見回して、
「ものども見るがいい。鎌倉の頼朝殿にも、この男有りと知られた、今井四郎兼平。これが武将の死に様よ。」
と言い放ち、握っていた刀を自らに向けた。
襲い来るであろう修羅場の恐怖に身を震わせていた敵達は、予期せぬ彼の行動に目を疑った。
彼は、その刀の切っ先を口に含むや否や馬上から飛び降りた。
自らの刀でその肉体は貫かれ、辺りに飛散した鮮血は、彼の激情をあらわすかのようにほとばしった。
その鮮烈な死に様は、居合わせた武士達の瞳と心に刻まれ、後の世にまで伝えられたという。
初出/平家物語では語られない木曽義仲と今井兼平の生涯 1999.12