1181 横田河原合戦
●横田河原合戦前記 ●文献に見る横田河原合戦 ●付記

「われ信濃を出でしより小見・会田の合戦より始めて…」平家物語巻八

 義仲が自分の戦いを振返った時語られた「小見・会田」の合戦とは、義仲の挙兵直後の戦いと考えられている。
その合戦は平家物語にも記されておらずはっきりしないが、現在これらの戦いは、横手河原合戦の前哨戦であった「市原の戦い」の事を指すか、麻績御厨に根拠地を持つ平家との戦いではなかったかと見られている。  
平家物語異本や北信濃一帯に残る伝承などから、義仲の北信濃での戦いおよび、そのころの豪族達の様子などをまとめつつ「横田河原合戦」について考察する。


1・横田河原合戦前記〜それまでの北信濃〜

一・義仲挙兵前の信濃

 長野県が山に分断され、それぞれの盆地圏が出来ているのは今も昔も同じである。もともと信濃に住んでいた豪族たちは、自分の土地の保護を求めて、それぞれ都の貴族や寺社とつながっていた。
 しかし、土地を巡る武力行使が盛んになってくると、豪族達は横のつながりを強め、平安末期の信濃では、上田〜佐久盆地の豪族達は滋野一族(滋野党)と名乗り、諏訪盆地では諏訪大社の信仰を中心とした諏訪神党が形成されていた。それ以外にも源氏を祖とする者、平氏を祖とする者が一族や近隣のものと結んで武士団(=党)を形成していた。
 義仲は源氏でありながら幼い頃父を無くし、信濃権守・中原兼遠に引き取られた関係から、中原兼遠の親族と婚姻関係にある・滋野一族、権守と実務関係が深い諏訪大社下社大祝を通して諏訪神党下社系と自ら婚姻関係を結び勢力下に収めていた。
 北信濃では、源氏・平氏・秀郷流藤原氏の末流がそれぞれ小武士団を形成、乱立状態にあり、保元・平治の乱でもその動きはばらばらだった。しかし、平氏治世になると、もともと平家の末流を自負していた笠原氏を中心とする一団が現れ、同じ平家末流の越後の大豪族・城氏と結んで力を振るい始めた。城氏は国府を掌握して越後を手にしたから、笠原氏も善光寺平にあった信濃後庁を掌握しようとしたのかもしれない。しかし、笠原氏の勢力伸張は北信濃の豪族達には受け入れがたいものだったらしく、1179年3月の善光寺焼失もそれらの混乱によるものだと考えられる。

二・市原の合戦〜義仲勢力下に

 都で以仁王が挙兵した1180年、9月に村上源氏の分家栗田氏・地元豪族(井上源氏?)の村山氏などが兵を上げ、笠原氏に戦いを挑むが苦戦し、義仲の援軍を得てやっと勝利を収めた。これを「市原の戦い」という。
敗走する笠原氏は城氏を頼って越後に落ち延び、北信濃は義仲勢力下となった。その後義仲は亡父の勢力圏だった上野を訪ね、高山党を勢力に加えた。
 それに対し城氏は12月、都に「信濃・甲斐の源氏追討」を申請し、認められた。そのため、たびたび「城氏が信濃を攻めにくる」といううわさが流れたが、冬は雪に阻まれ、春になると進軍の準備を固めていた城氏の棟梁・助永が突然死し、結局信濃へ侵攻を開始したのは6月に入ってからだった。


2・横田河原合戦詳細〜文献資料をさぐる〜

棟梁を失った城氏は弟の助職が相続し、義仲攻めの意志も引き継いだ。横田河原合戦の詳細は諸本・伝承に寄って異なるのでそれぞれ簡単に紹介する。→コチラ

以降続く
@史料に書かれた様相
A軍記物に書かれた様相
B地方史に残された様相

3・まとめ

付記1・参考文献一覧
付記2・関連武士一覧


関連ページ→四天王戦記「横田河原合戦〜楯六郎」

 
木曽義仲の基礎知識/kaori-nishikawa1996