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横田河原合戦●横田河原合戦前記 ●文献に見る横田河原合戦 ●付記 |
1・横田河原合戦前記〜それまでの北信濃〜
一・義仲挙兵前の信濃
長野県が山に分断され、それぞれの盆地圏が出来ているのは今も昔も同じである。もともと信濃に住んでいた豪族たちは、自分の土地の保護を求めて、それぞれ都の貴族や寺社とつながっていた。
しかし、土地を巡る武力行使が盛んになってくると、豪族達は横のつながりを強め、平安末期の信濃では、上田〜佐久盆地の豪族達は滋野一族(滋野党)と名乗り、諏訪盆地では諏訪大社の信仰を中心とした諏訪神党が形成されていた。それ以外にも源氏を祖とする者、平氏を祖とする者が一族や近隣のものと結んで武士団(=党)を形成していた。
義仲は源氏でありながら幼い頃父を無くし、信濃権守・中原兼遠に引き取られた関係から、中原兼遠の親族と婚姻関係にある・滋野一族、権守と実務関係が深い諏訪大社下社大祝を通して諏訪神党下社系と自ら婚姻関係を結び勢力下に収めていた。
北信濃では、源氏・平氏・秀郷流藤原氏の末流がそれぞれ小武士団を形成、乱立状態にあり、保元・平治の乱でもその動きはばらばらだった。しかし、平氏治世になると、もともと平家の末流を自負していた笠原氏を中心とする一団が現れ、同じ平家末流の越後の大豪族・城氏と結んで力を振るい始めた。城氏は国府を掌握して越後を手にしたから、笠原氏も善光寺平にあった信濃後庁を掌握しようとしたのかもしれない。しかし、笠原氏の勢力伸張は北信濃の豪族達には受け入れがたいものだったらしく、1179年3月の善光寺焼失もそれらの混乱によるものだと考えられる。
二・市原の合戦〜義仲勢力下に
都で以仁王が挙兵した1180年、9月に村上源氏の分家栗田氏・地元豪族(井上源氏?)の村山氏などが兵を上げ、笠原氏に戦いを挑むが苦戦し、義仲の援軍を得てやっと勝利を収めた。これを「市原の戦い」という。
敗走する笠原氏は城氏を頼って越後に落ち延び、北信濃は義仲勢力下となった。その後義仲は亡父の勢力圏だった上野を訪ね、高山党を勢力に加えた。
それに対し城氏は12月、都に「信濃・甲斐の源氏追討」を申請し、認められた。そのため、たびたび「城氏が信濃を攻めにくる」といううわさが流れたが、冬は雪に阻まれ、春になると進軍の準備を固めていた城氏の棟梁・助永が突然死し、結局信濃へ侵攻を開始したのは6月に入ってからだった。
以降続く