清水義高
●人名リスト


清水義高は義仲の嫡男で、頼朝と義仲の間が険悪になったとき、鎌倉に送られました。表向きは頼朝の娘・大姫(当時5歳?くらい)の夫にということでしたが、実状は義仲が頼朝に刃向かわないための人質でした。
鎌倉での義高は平穏な日々を過ごし、大姫とも大変仲むつまじかったのですが、義仲の死によってその状況は難しいものになりました。
頼朝は義高の処遇についてしばらく悩んでいましたが、義仲の残党が義高を擁して挙兵することを恐れ、結局殺すことにしました。その事を知った大姫は海野幸氏と協力して義高を逃亡させましたが、現在の狭山市で討たれてしまいました。
大姫はその後、義高を思いながら短い生涯を閉じました。

 義高については、はっきりとした文書などが残されていないので、さまざまな説があり、生誕地、母共に定説がありません。(名前も義基とされていることもあります)
その幾つかについて、紹介します。

義高の母について

義高の母については、「巴」「山吹」のどちらかではないかと言われています。 「巴」は義仲の乳兄弟である、中原兄妹のひとりで女武将として知られている人物です。「新平家物語」ではこの説が取られ、巴の母としての心情などが描かれています。
「山吹」はこの人自身、出身がはっきりしていない人なのですが、最近の説では、「海野氏の娘」が有力視されていて、「巴御前」の中では、山吹が母と言うことになっています。 西川個人の見解としては、義仲軍の中心を、長野県東信地方のいわゆる『滋野党』(海野氏、根々井氏、楯氏、望月氏、祢津氏、小室氏など)がしめていたことから、滋野党の棟梁にあたる「海野家の娘」が義仲の正妻で、義高の母であるのが順当ではないかと思っています。また、義高の従者として海野幸氏が重用されていることからも、その可能性が高いような気がします。

義高の生誕地について

義高の生誕地を明かして行く中で、重要なのは、名字の「清水」です。武士達は、自分の住んでいた土地や、持っている領地を名字にする習わしがあったからです。(例えば、義仲は木曽で育ったため「木曽義仲」と名乗っています。親子や兄弟で名字が違うのも当たり前でした。)つまり、この「清水」がどこであるか判ればいいのですが・・・。
実は、清水と言うのは非常に一般的な地名で、基本的に水が湧いている所は「清水」というのです。そのため長野県下のさまざまな「清水」が、生誕地との名乗りをあげています。

有力なものの一つは
←丸子町にある清水義高ゆかりの「正海清水」です。

ここは、義仲の居城のあった依田城のすぐ近くにあり、館跡といわれている所もあります。また丸子町は海野氏の領地にも近く、「山吹=海野氏説」をとるなら、非常に可能性が高い所です。

もう一つは木曽にある「志水」説です。清水冠者義高は「志水冠者」と記されることもあり、この表記を重要視するなら、可能性が高い所です。「巴=義高母説」をとるなら、さらに可能性は高まります。

このほかには土器で知られる長野市の「箱清水」説(義高の乳母が箱清水出身とのいわれています。)、松本市の「清水」説、最近注目を集めている、小諸市の「清水」説などがあります。(小諸市には諸地区にあった、若宮神社にて、義高が元服したと言う伝承もあります。)

義仲の子孫


海野幸氏

義仲には「今井兼平」と言う、深い絆で結ばれた乳兄弟がいましたが、義高にも「海野幸氏」と言う友人がいました。
義高とは同い年といわれ、仮に山吹が母親だとすると、いとこであった可能性もあります。

幸氏は義高と共に元服し、共に鎌倉へ送られました。

義仲の死後、源頼朝は義高を殺そうとします。その時、幸氏は義高だけを逃がし、自分は鎌倉に留まって、義高がいるかのように振る舞い時間を稼ぎました。
しかしあえなく見破られ、義高は殺害され、幸氏は捕らえられます。

その後頼朝は、幸氏が自分を身代わりに義高を助けようとしたことに感銘を受け、幸氏を御家人に加えました。その活躍ぶりは「弓馬四天王」に数えられるほどになりました。