1181 横田河原合戦
●横田河原合戦前記 ●文献に見る横田河原合戦 ●付記



1・横田河原合戦前記〜それまでの北信濃〜→コチラへ

2・横田河原合戦詳細〜文献資料をさぐる@史料・軍記〜→コチラへ
2・横田河原合戦詳細〜文献資料をさぐるA自治体誌(伝承)〜→コチラへ


まとめ
 横田河原合戦は、今だ、謎が多い合戦である。進軍の様子などは、さまざまに想定されているが、確証を得ていない。しかし、室町時代に行われた「大塔合戦」が同じ地籍を舞台に、義仲軍勢に参加した信濃武士団と似た構成によって行われたことが大きなヒントになると考えられよう。

 義仲が率いていた軍勢についても信濃・上野はほぼ確定されているが、井上氏以外の信濃源氏や甲斐源氏に関しては参加していたかはっきりしておらず、研究者の間でも意見がわかれている。しかし甲斐源氏武田氏・信濃源氏平賀氏・村上氏の参加は無かったと考える方が後の源氏諸氏の動きから妥当ではないだろうか。
 これら諸氏が都で官職を受け活躍していたのに対し、義仲は父を幼くして失ってしまったため無官であり、例え義家系の血脈だったとしても、源氏内部では低く見られていたと考えられるからだ。同じく無官である井上氏のみが参加しているのが一つの指標である。
 「玉葉」にはっきり「甲斐武田党」が書かれている事については、当時の京では「東国の反乱軍の首謀者は、頼朝と武田氏」と考えられていたため、頼朝を中心としない反乱軍であれば武田勢だろうという思いこみによって語られたと考えられる。

 横田河原合戦時点の義仲軍は、義仲と親族的つながりを持つ滋野一族・諏訪神党下社系、市原の合戦で義仲に助勢を受けた北信濃の小武士団、義仲の父とつながりがあり義仲に下った上野高山党など、義仲に直接恩顧を受けるものに限られていた。しかし、この合戦を勝ちぬいた事によって義仲の名は知れ渡り、北陸各地の武士団、叔父・志田義広・源行家などが義仲の旗下に加わることになった。義仲は名実ともに源氏として認められたが、それにより源氏の内紛が加速しようとは運命の皮肉である。


参考文献(詳しい書籍情報は「木曽基礎・参考文献コーナー」をご参照下さい。
【史料】
玉葉 台記 吾妻鏡

【軍記物】
平家物語(覚一本・延慶本・源平盛衰記)

【自治体誌】
長野県史通史編第2巻中世1
新潟県史
上高井郡誌
下高井郡誌
更級郡誌
上高井誌
上山田町史
鬼無里村誌
桑原村誌
小布施町史
上水内郡誌歴史篇
坂城町誌中巻歴史編(一)
中野市誌
須坂市史
飯山市誌歴史編(上)
長野市誌

【地方誌】
善光寺史

関連ページ→四天王戦記「横田河原合戦〜楯六郎」

 
木曽義仲の基礎知識/kaori-nishikawa1996