1181 横田河原合戦
●横田河原合戦前記 ●文献に見る合戦1(史料・軍記) ●文献に見る合戦2(自治体誌) ●付記

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2・横田河原合戦詳細〜文献資料をさぐる@史料・軍記〜→コチラへ



2・横田河原合戦詳細〜文献資料をさぐるA自治体誌(伝承)〜
横田河原合戦の展開を詳細に検討するため、伝承・ゆかりの地を、自治体誌などから探した。

@自治体誌に残る、「横田河原進軍伝承」

更級郡誌(大正3年発行)
・城氏は作見寺を本営として、石川・塩崎間で戦おうとしていたが、義仲が挟撃されるのを恐れて雨宮に陣したので横田に移り陣したという。
・義仲は井上光基に300騎を預け、千曲川下流の埴科郡倉科の地点を出て、山を越えて清野に抜けさせた。根井・楯には兵500と共に弁天塚に伏せさせた。そして義仲本人が川を渡って城氏を攻め、敗れたフリをして引き、城氏がそれを追って深入りした時に、 背後から井上氏に白旗を上げさせて襲わせ、義仲はさらに引き返し、根井ら伏兵が側面を付き攻め立てたという。

上山田町史(昭和30年発行)
・義仲軍は白鳥河原から更級に入ったが、別の一隊が麻績郷からハベシナ越え、一本松峠、  馬場越より進軍した。麻績村には横田河原のとき義仲が陣したという「木曽殿城」をはじめ多くの伝承地がある。

A横田河原関連の伝承地

●長 野 市 
伊勢社(伊勢町)
義仲が土地を寄進した棟札が残る。

八幡社(八幡)
義仲戦勝祭を7月14〜16日に行う。

勝鬨八幡社 常泉寺
義仲が城氏を追いはらい勝鬨を上げたと言う場所。常泉寺はこの時火事に

陣場山(西北山八幡山)
義仲の陣か

義仲鞍掛けの石 (石山)
義仲が鞍を掛けた

大尊社(寺尾)
寿永元年6月義仲の戦火を受けたと言う。

前山城・春山城(高井綿内村)
寿永元年9月築城、城永茂と戦うと言う.

横田城(篠ノ井)
城跡はない。義仲の根拠地のひとつ

●更 埴 市 
長福寺文書(桑原)
寿永2年義仲が横手山に陣所を設け、佐野薬師に屯営した。その時焼失し廃院となった。

桑原の義仲伝承(桑原)
木曾殿陣場・かまとぎ・けいし水・さいの神という地名が残る。

進軍伝承(桑原)
桑原村の南沢利右衛門は義仲の一隊が横手山を通って横田河原へ出陣する時道案内をしたという。

弁天塚
横田河原合戦で楯が兵500を持って潜んだ所。雨宮神社の東南

●麻 績 村 
義仲にまつわる地名
木曾殿城山・山吹堂のほか、幕の内・陣場・狼煙場・西遠見東遠見がある

●栄 村 
合戦場
義仲が城氏軍を追ったのか、栄村會(東福寺村小森地籍)に合戦場という地名が残る

このように横田河原合戦に関する記述はそれぞれまちまちで、伝承に関しては史料に登場せず真偽もはっきりしていない「市原の戦い(1180)」「頼朝の信州攻め(1183?)」及び「頼朝の善光寺参拝(1198?)」などと混同されてしている部分も多く確証を得ないが、義仲の具体的な進軍の様子を想像するには貴重な情報たちだといえる。
これらの伝承を元に、横田河原マップを作成してみた。→近日中マップ掲載(別ウインド表示)

3・まとめ→こちら

付記1・参考文献一覧
付記2・関連武士一覧

関連ページ→四天王戦記「横田河原合戦〜楯六郎」→こちら

 
木曽義仲の基礎知識/kaori-nishikawa1996